いそ歯科医院ができるまで
いそ歯科医院の歴史は小江戸・川越から前橋城主として任命された
牧野というお殿様の家臣として政木家が前橋にやってきたことから始まりました。
初代 磯桂
その政木家の息子、政木桂は武家の子ではありました時代が終わり、
明治となって士族といえども商売をはじめないと食べていけない世の中になったのです。
そこで政木桂は独学でアメリカの歯学を学び始めました。
そして歯科医師の国家検定試験に見事合格しました。
政木桂はそれから前橋の磯家の磯つると結婚し婿養子となり
明治32年(1989年)10月に前橋の横山町に初代磯歯科医院を開設しました。
磯桂と磯つるは男3人と女3人というたくさんの子宝に恵まれました。
二代目 磯茂雄時代
兄弟の仲でも長男の茂雄は、
幼少の頃から優秀で前橋中学(現前橋高校)では一番の成績で級長を任ぜられるほどになりました。
そんなようですから在学中から東京帝国大学入学(現東京大学)を周りから渇望されていました。
しかし、前橋中学在学中に父、桂が亡くなってしまいました。
働き手を失った一家は路頭に迷い離散しかねない状況になってしまいました。
そのために長男である茂雄は早く世にでて家族を養っていかなければならない責務を感じ、大学をあきらめて早く手に職をつけることを考えました。
そのため父、桂と同じ歯科医師という道を進むことになり、
あの医聖野口英世を輩出した東京歯科医学院(現東京歯科大学)へ入り歯科医師になりました。
(左)二代目 磯茂雄(右)当時の磯茂雄診療室
前橋の横山町で診療を開始しました。
開業して間もなく2歳年下の共愛中学を卒業したばかりの同じクリスチャンである久保田マサを妻に迎えました。
そして長女洋子、長男譲二のふたりの子宝にも恵まれました。
腕もよく、また敬虔なクリスチャンだったために博愛の精神でどんな人にもやさしく接していたためか、医院は大変繁盛し、遠くは渋川からも馬に乗って患者さんが来ておりました。
また治療代が払えない人はお金の代わりにお米や野菜をもってきてくれました。
そして茂雄の磯歯科医医院は代診の先生を数人雇って分院を経営するほどになっていきました。
また医院を拡張させるだけでなく当時は最新機器であったレントゲン撮影装置や電気エンジンによる歯の切削器具を購入し、患者さんにとってよりよい治療を目指していました。
茂雄は経済的にも成功していき当時、まだ日本全国でもめずらしかった自動車、それもT型フォードを購入しました。
単なる道楽での購入でしたが、やがてそれが役に立つ日が来ました。
それは大正12年(1923年)9月1日に起こった関東大震災の時です。
(左)血脇守之助先生(右)野口英世と血脇先生
こんな状況の中、血脇先生をひとりで帰らすわけには行かないと茂雄は思いました。
そこで茂雄はT型フォードで血脇先生を東京まで送っていこうと思い立ちました。
しかし、茂雄は車の運転には自信がありましたが、腕力には自信がありませんでした。
そんな時に代診の大川宗平は若い頃はやんちゃで浅草あたりでは相当鳴らしていたということを思い出しました。
昔、浅草にいたなら東京の道にも詳しいだろうし、第一腕力が強いのならイザと言う時に頼りになると思ったのです。
そこで茂雄は宗平に一緒について来てくれる様に頼みました。
すると宗平は快諾してくれました。
そして血脇先生を茂雄と宗平の二人で送り届けることになりました。
そして道中、心配していたような事も起こらず血脇先生を無事、東京に送り自分たちも怪我一つなく無事、前橋に帰ってくることができました。
このことに血脇先生は大変感謝されていたそうです。
真偽のほどはわかりませんが「茂雄君の息子さんは自分の学校の入学試験は名前さえ書いてくれれば通してやるよ」と言っていたそうです。
このように茂雄は経済的にも磯家を建て直し、順風満帆と思えた矢先・・・
またしても磯家を大きな不幸が襲ったのです。
いそ歯科医院の救世主 大川宗平
当時はまだ技工士という職業も無かったために、診療が終わると今度は技工もしなければなりませんでした。
そんなことが毎日続いたために、とうとう体を壊し当時は不治の病、結核にかかってしまったのです。
臨終の時に家族、そして代診の大川宗平が見守るなか、茂雄は息もたえだえの状態で何かをしゃべろうと口を動かしました。
声にはなりません。
宗平が耳を口元に近づけましたがそれでも聞こえませんでした。
しかし宗平はきっと家族のことを心配しているのだろうとわかりました。
茂雄自身も父親を早くなくして大変な思いをしてきたのがわかっていたからです。
実は宗平自身は長男であるにも関わらず家出同然に千葉の実家を飛び出してきてしまったので、残された者たちに対してすまないという思いもありました。
宗平はこの瞬間一代決心をしました。この磯家に骨をうずめようと!そして茂雄にそして磯家の人間にも聞こえるように言いました。
「心配するな。後のことは俺にまかせろ!だから安心して逝け!」
そうすると茂雄は安心したのか。ふっと息をひきとりました。
茂雄はわずか30歳。妻 磯マサ28歳 長女 磯葉子5歳 長男 磯譲二3歳の時です。
いそ歯科医院の苦労時代
茂雄が亡くなってからというもの毎日、磯家には借金とりが来るようになりました。そして家族は追い出されるように前橋・横山町の診療所も家も手放し前橋を後にするしかなかったのです。
幸い前橋から東に10Kmほど離れた大胡に分院があったので、その近くの借家に入ることにしました。そしてその分院でとりあえず磯歯科医院として大川宗平が診療を始めることになりました。
宗平は手先が大変器用だったので入れ歯の仕事がうまく、それが評判になり段々と患者さんが増えていきました。宗平は茂雄に比べると体は強かったので多少の無理はしても平気でした。
それでも茂雄の借金を返したり茂雄の家族を養ったり、茂雄の子供だけでなく、茂雄の兄弟の学費も出さなければならず、それはそれは大変な毎日でした。
そんな中でも少しずつ貯蓄を増やしていって借家を何とか買いとって自分たちの家にすることが出来ました。
そのうち茂雄と同じ東京歯科医学院を卒業し歯科医師となった茂雄の弟、次男の淳二と三男誠三が手伝ってくれたのです。
しかし日中戦争が勃発し、淳二は歩兵隊へ、相撲部で体の大きかった誠三は砲兵隊へ、徴用されてしまったために宗平はまた一人で磯歯科医院をきりもりする事になってしまいました。
当時の東京歯科医学院
太平洋戦争が激しくなり東京も連日の空襲のため学生たちは秋田に疎開せざるをえなくなりました。
そして譲二は疎開した秋田で終戦を迎えました。
その後、東京での授業が再開され、東京歯科医専を卒業して、国家試験に合格し、はれて郷里に帰ってきました。
幸い兵隊に徴用された淳二も誠三も無事帰国し、
ふたりもとも前橋市内にて歯科医院を開業することになりました。
三代目 磯譲二時代
三代目 磯譲二
郷里に帰ってきた譲二は磯家の大恩人であり父親がわりをしてくれた大川の養子となり大川譲二となりました。
その後大川譲二は笠木敏子と結婚し、長女和子、次女千秋、長男秀樹を授かりました。夫婦はもちろんの事、大川宗平はどの子のときも目を細めて喜びました。血はつながっていませんがやっと本当の家族のようになったのです。
大川宗平にも大川譲二にもやっと暖かい普通の家庭ができたのです。
四代目 磯秀樹時代
地元の幼稚園、小、中、高と進み東京歯科大学を1987年3月に卒業、歯科医師国家試験にも無事合格し、そのまま母校の補綴科(入れ歯や被せ物の研究や臨床を専門に行なう所)に四年間残りました。
その後1年間浅草の法人歯科医院に勤務し、1992年4月より三代目と共に地元大胡にて診療を開始しました。
患者様がお住まいの主なエリア
群馬県前橋市、群馬県桐生市、群馬県伊勢崎市、群馬県太田市、群馬県みどり市
上記以外の地域からも沢山の患者様が来院されています。お気軽にお越しください。






