群馬県 前橋市 歯医者 歯科医院 いそ歯科医院 ホーム > スタッフ紹介
院長 大川 秀樹のプロフィール
大川 秀樹(おおかわ ひでき)
昭和37年2月10日生 2児の父
私は自分自身や自分の家族だったら「安全で質の高い治療を受けたい」と思い、それを目指して医院をつくってきました。そのために当院は約束診療制(予約診療制)にて診療にあたらせていただいております。
ですからもし痛いときにすぐ見てくれるという利便性を求める方には「いそ歯科医院」はご満足いただくことは難しいかもしれません。 でもあなたが「お口の健康を回復していつまでも若々しくありたい!」という熱意と希望をお持ちであれば私どもはそのお手伝いを喜んでしたいと思います。
| ●経歴 ・1962年2月 赤城山の麓、大胡で生をうける。 ・1986年3月 東京歯科大学卒業 ・1986年4月 東京歯科大学千葉病院 補綴第二講座に特別研究生として勤務 ※補綴科とは入れ歯、被せ物、インプラントの研究や臨床を専門的に行う所。 ・1987年4月 東京歯科大学千葉病院 補綴第二講座の病院助手に任ぜられる。 ・1990年4月 医療法人花川戸歯科医院勤務補綴だけではなく一般臨床も本格的に行う。 ・1991年4月 いそ歯科医院勤務 大胡に帰り父と共に診療を始め現在に至る。 ●主な所属学会:日本審美歯科学会・日本歯周病学会・日本顎咬合学会(認定医取得)・日本口腔インプラント学会 ●所属勉強会:IEPO ●歯科医師会役職:前橋歯科医師会学術委員 委員長 |
歯科衛生士 布施 こずえ
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- プロフィール
- 経歴:群馬県歯科衛生士専門学校卒業第30期生
2000年 歯科衛生士免許取得
特技:剣道3段
今年の目標:早寝早起き、プラス思考
みなさんへ一言:衛生士になって10年目の布施です。治療後もメインテナンスにできるだけ多くの方に来ていただいて、みなさんがお口のクリーニングをして、おいしい食事ができ、ずっと笑顔でいられるようにお手伝いさせていただきます。
歯科衛生士 中澤 広美
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- プロフィール
- 経歴:群馬県歯科衛生士専門学校卒業第32期生
2002年 歯科衛生士免許取得
趣味:旅行
今年の目標:お弁当作りをする
あいさつをする
ベランダで野菜作り
みなさんへ一言:衛生士になって今年で8年目になる中澤です。
出産、育児を経験し、いそ歯科医院へ勤務し今年で4年目になります。働き始めた頃はブランクがあり、また歯医者で働いていけるか不安でしたが、良いスタッフに恵まれ今に至っています。
衛生士として、患者さんのはを守り、患者さんを第一に考えられるようにつとめて行きたいと思います。
受付 兼 助手 金子 彩美
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- プロフィール
- 経歴:前橋医療福祉専門学校卒業
趣味:映画鑑賞(DVD鑑賞)
TDS・TDLに行く事
今年の目標:健康管理
専門用語を覚える
みなさんへ一言:いそ歯科医院に新しく入りました金子です。
パソコンの操作は得意ですが、歯科の事はまだまだ分からない事ばかりでご迷惑をおかけすることもあると思いますが、よろしくお願いします。
早くいろんな事を覚えたいと思います。
院長 大川 秀樹物語
誕生〜幼稚園
昭和37年2月6日に大川譲二と大川敏子の長男として、群馬県前橋市で生まれました。
堀江謙一氏がヨットで太平洋単独横断に成功した年です。
赤ん坊の頃はサルみたいにかわいく二人の姉たちにペットのごとくかわいがられていたようです。
子供のころは赤塚富士夫の「おそ松くん」のテレビマンガが好きで中でも「イヤミ」というキャラクターの「シェー」というポーズが大のお気に入りで、ウルトラマンが好きな無口な子供でした。
そのころはよく父親が車を運転して家族をドライブに連れて行ってくれました。でも今みたいにディズニーランドなんかありません。近くの桐ヶ丘遊園とか遠くて吉見百穴とか夏には海水浴に鯨波とかにドライブしていった記憶があります。
特に鯨波に海水浴に行った時に父に抱かれて沖の方へ連れて行かれた時は怖くて泣いてしまいました。
また幼稚園の頃の自分にとっては大事件がありました。たまに幼稚園で行く神社の境内に芝生のような草が生えた幅の広いなだらかな坂があります。そこで園児たちは上か下まで体を横にしてゴロゴロ転がって遊ぶのです。
事件が起きたその日もみな同じようにその坂にいました。
私もみんなに負けじと下までゴロゴロ転がったのですが、下までつくと何だか臭いではありませんか。
服をよくみるとお腹のあたりに横一文字に「○んち」がついているではありませんか!どうやら、犬の「○んち」みたいです。
臭い状態なのに幼稚園までの帰りに○原ちゃんという女の子は手をつないでくれました、強烈に覚えています。○原ちゃん、ありがとう!
小学生のころ
どろ団子のボールが目にあたりトラウマに!
友達とそのお兄さんと野原でどろ団子を作って投げ合った時、目にどろ団子が見事にあたり倒れました。私は、その時よりボール恐怖症になってしまい、それ以来球技に全く縁のない、玉感がない人間になってしまいました。
また他の子供より運動神経が鈍かったため、自転車に乗るのも人より遅く、見かねた姉から自転車のスパルタ特訓を受けました。
近くに上毛電鉄という私鉄の大胡駅の車両庫の近くに幅のひろい坂道があり車の通りも少なかったのでそこでさかの上から最初は姉が後ろに手を添えてくれて押し出すようにするのです。
余談ですが、この上電大胡駅。ご存じの方もいらっしゃると思います、鉄道マニアに大人気な駅です。それはデハというチョコレート色のレトロな電車が今も動かせる状態で展示さてれているからです。たまに動いているみたいです。また、人数が集まれば貸切電車にもなるようです。ホームが映画やドラマのロケにも使われるようですね。
すると「あ!まっすぐ走れた」と思い後ろ少しみると姉は手を添えていません。思わず怖くなりバランスを崩してひっくり返ってしまいました。そんなことを何十回と繰り返しました。体はカスリ傷だらけになり涙がこぼれてきました。
姉には叱咤され「もう今日は帰るよ!」半べそをかきながらうなだれてトボトボと家に帰りました。
もうあきらめかけた頃、姉がいない時に自宅の庭で試しに自転車に乗ってみました。そしたら何のことはない。簡単に乗れてしまったのです。うれしかったですね!
よく姉たちと喧嘩をすると最後には必ず
「お前は荒砥川(家のすぐ近くに流れている川)の橋の下に捨てられていたんだ!」
「お前はうちに男の子が生まれないから貰われてきたんだ!」
と言われ、本気で「そうか自分ってこの家の子じゃないんだ」と心配し家出をしかけたこともありました。
ある時、おじいちゃんの体調が悪くなったためおじいちゃんが別宅からこっちの家にこして来ました。お医者さんも何度も往診に来てくれましたがおじいちゃんの容態は一進一退という感じであまり良くなりませんでした。
そしてある日おじいちゃんの容態が急に悪化したので小学校を早引けするように電話がありました。
ちょっと前まで低い声で自分を呼んでくれていたおじいちゃんの口が今は弱々しく息をするのさえ苦しそうです。最後おじいちゃんの息が止まりそうになり父、母、おばあちゃんが泣きながら叫んでいるのを傍らで見ていて、いたたまれなくなり思わずうちの大きな階段のところに駆けて行き、ひとり座って泣きじゃくっていました。子供のくせに「もしおじいちゃんと変れるものなら代わってやりたい」などと考えながら・・・
そこに母が来て、そって抱きしめてくれました。そのぬくもりの感じは今でも忘れられません。
そのおじいちゃんとの一番の思いではアポロ宇宙船が月面着陸をする時のTV中継を一緒に見た事です。
寡黙な人なので特に驚きの声とかは発しませんでしたが、自分が驚いたのは翌日おじちゃんの家に月面着陸の新聞記事の写真が額縁に入れられて飾られていたことです。
肝の大変すわった人でちょっとやそっとでは動じない人でしたが、その人をしてここまで行動させるくらいのすごい事なんだなと子供ながら思いました。
そして、この一件をきっかけに宇宙飛行士、天文学者、科学者にあこがれるようになりました。そしてきっと自分が大人になった時には科学がすごく発達して病気になる人はいなくなり、戦争はなくなり世界は平和になるのだろうと本気で信じるようになりました。
もしかしたら、このおじちゃんの行動が今思うと科学に興味を持たせてくれたのかもしれませんね。
小学校も6年になると中学への進学というのが気になり始めました。今と違ってお受験というのは1学年にひとりいるかいないか程度で、ほとんどの人がエスカレーター式に小学校の北側に隣接した中学に行くというのが普通でした。受験勉強の心配はありませんが、自分が本当に中学でやっていけるのだろうかという妙な不安がありました。それは小学校の北側の窓から中学の校庭が見えるのですが、そこにいる中学生の体つき、顔つきが自分たち小学生とまるっきり違うからです。
その時に小学生の自分からみた中学生はもうおじさんくらいに見えたのです。
ですから、あともう少しであそこに行くんだと思うと少し怖くなったのを覚えています。
さて特に受験勉強をすることもなく、ほとんど周りは同じ顔のまま進学すると何やら見かけね顔もチラホラいます。
そうです。小学校のときは気がつかなかったのですが小学校の分校から中学になると合流してくる人たちもいるのです。
中学生になったら何でもいいからスポーツやったほうがいいと両親に言われ、考えあぐねていると父親から「剣道はどうだ。」と言われ、何となく剣道部へ入部することになりました。
入ってからあとで聞いたのですが「剣道部は当時の不良のたまり場」でした。
当時の部活というと、1年生=奴隷、2年生=人間、3年生=神様のようでしたね。(笑)
自分が1年で入った当時は単なる不良でなく試合でもいい成績を残していました。ですから、練習もかなりハードでした。まずは腕立てや腹筋などの基礎体力つくりを行い、そこから防具をつけて剣道の練習が始まりました。ここで生まれてはじめて筋肉痛というものを味わいました。
また、夏の炎天下に「動かずに、1時間左手だけで竹刀を手を伸ばしてもってろ。」というような練習もありました。そういう意味では昔の人間は強かったのですかね〜。そんなことしても日射病で倒れる人間いませんでしたから。もちろん練習時間中は水分補給はなし!
3年生になるとみんな洋楽を聴き始めました。男子の間ではその当時でもすでに解散していたビートルズが人気でした。特に○村君、○山君、○田君がその筆頭でした。
放課後の掃除の時間になると掃除もそっちのけでほうきをギターがわりに、バケツをドラムがわりに教室がコンサート会場に生まれ変わります。
自分はラジオで全米No1ヒットというふれこみで売っていたベイシティーローラーズの「サタディナイトフィーバー」が好きでした。でもこのグループを好きだったのは自分以外女子しかいなくてずいぶんからかわれましたね。(笑)
からかわれながらもグループのトレードマークのタータンチェックのハンカチを学校に持っていってさらにからかわれたりしてました。
勉強の方はというと相変わらすラジオで音楽を聞きながらですから実が入らない状態です。
そんな状態で受験の日を迎えてしまいました。
高校時代
何とか私立高校は合格しましたが、大胡から前橋を越して高崎駅へそこからさらに自転車で10Kmも離れた所へいくはめになりました。
あのビートルズで一緒に騒いでいた○村君、○田君も同じ高校にいくことになりました。
部活の方は、中学は厳しい部活だったので、高校では少し違うような部活にしたかったので応援団や剣道部の勧誘をうまくすり抜けて、オリエンテーションの時の紹介が面白かった科学部に○田君といっしょに入りました。
しかしそのクラブ、危ない実験をして爆発を起こし実験室がメチャクチャになったという、いわくつきの先輩がいました。
中学の時とは別な意味で危ないクラブに入ってしまいました。(笑)
科学部では、上下関係は厳しくなく先輩も友達みたいでした。
この部活で一番の思い出は山へハイキングに行ってそこら辺に生えている野草をかたっぱしから天ぷらにして食べるという活動がありました。中にはとてもまずい物がありました。いかに普段食べているのが美味しいものがよくわかりましたね。
その中でも一番おいしかったのは沢ガニ。あれはおいしかったです。
最初はこのクラブは上下関係も厳しくなく居心地がよく、爆発も起こらなかったのですが(笑)、何かこのクラブにいる目的を見いだせなくて結局○田君とともに科学部はやめてしまいました。
その後は、帰宅部になってしまいゆる~い毎日が続いていました。
そんな1年生の夏にNHKのFMを聞いていたら今までに聞いたことが無いような音楽が流れてきました。
その瞬間、体が稲妻に打たれたように衝撃が走り、鳥肌がたちました。英語の歌でしたが中学のころ聞いていたビートルズやベイシィティローラーズとは全然違う音楽です。うなるギター、雄たけびのようなボーカル、地はようなベース、雷鳴のように鳴り響くドラム。
一体これは誰の曲なんだあ!と思いラジオを最後まで聴いているとイギリスのディープ・パープルとレッド・ツエッペリンというロックバンドだということがわかりました。
そうするとギターをやりたくなります。この頃のロック少年はディープ・パープル派とレッド・ツエッペリン派に大別されますが、自分はディープ・パープル派なので、ギタリストのリッチーブラックモアと同じストラトキャスターが欲しかったのです。
でもフェンダーのストラトキャスターは当時のお金でも●十万もしましたから、とても高校生が手に入れられる代物ではありません。
そこで私は考えました。○田君も含めた周りに連中はみんなバイクに乗り始めていたので自分も「バイクに乗りたい」と親にいってみたのです。両親は「バイクなんて危ないからやめろ!」と言いました。
「じゃギターならいいのか」と交渉しました。親も「まあバイクよりはまだギターの方だったらいい」という事でギターを買ってくれることになりました。
もちろんフェンダーのストラトキャスターではなく国産のグレコの白いストラトキャスターです、それでも自分にとっては宝ものでした。
それからというもの学校から帰ってくるとレコード聴いてそれに合わせてギターを弾くという毎日が始まりました。
それなのに特にちゃんとしたバンドを組むこもありませんでしたが、街の夏祭りの時に友達の○田君のうちのベランダにドラム、ベース、ギターを持ち込んでビートルスの映画「Let. It Be」よろしくガンガンやりはじめてしまいました。まったく迷惑なもんです。その時のご近所さん、どうも申しわけございませんでした。
音楽ばかり聴いていたので勉強にも身が入らず大学受験には当然失敗。
浪人生活に入ることとなりました。
浪人時代
自分は地元の予備校に通って頑張るからと両親に話したのですが、親はそれを許してくれず父親が捜してきた埼玉県川越の全寮制の予備校に入ることとなりました。
とりあえず教科書、参考書と1週間分くらいの下着をバックに詰め込んで予備校の寮へと向かいました。
東武電鉄にのって川越の駅についてそこからバスに乗りついでやっと川越の予備校につく事が出来ました。あたりはとっぷりと暮れて真っ暗闇です。バス停から少し歩くとイモ畑の中に白い3階建ての建物が見えてきました。周りにあまり人家は無いような所みたいです。シーンと周りは静まり返っていてたまに牛ガエルの鳴く声が聞こえるくらいの所です。
塾主任講師の山○先生に挨拶すませると先輩に寮の部屋に案内されました。
部屋にはベッド、机、本棚、ロッカーがありましたが、すごく狭くてこれでトイレがついていれば独房だなあと思いました。(苦笑)
まずは隣の部屋の方に挨拶しておこうと思い、隣の部屋のドアをノックすると薄くらい部屋から髪の毛がボサボサで自分よりは身長は小さかったですが妙に顔つきに貫禄のある人が出てきました。
部屋もタバコくさい匂いがしました。
「これは絶対に予備校の主だ!何浪しているだろう」と思いましたが、話をしてみると自分と同じで1年目だそうです。そして京都の人間で1週間前からここに来ていること、自分と同じ歯医者の長男で名前は「神○」だと名乗ってくれました。
はじめての場所でしたが隣の神○君は一癖ありますが人間的には悪い人ではなさそうなので安心してグッスリ眠れました。
翌朝は誰かがうがいしている音で目が覚めました。普通だったらもう終わって水を吐きすててもいいころだろうという時間になってもまだガラガラしています。
起きて洗面所の方に向かってみるとそのうがいしている人物がわかりました。体はヒョロッとしていて髪の毛は短く少し神経質そうな顔つきの人でした。
この人は医科大学を目指して2浪している滋○さんという人でした。この予備校は歯科大だけでなく医科、薬科のための予備校なのでした。そして数人、大学に通っている現役組もいました。
毎日缶詰状態で勉強づけの日々では息が詰まってしまいますから週末などは池袋、新宿、渋谷に出たこともありました。消灯の時間が10時と決まっていましたので非常階段から寮監に見つからないように抜け出して帰りもまた非常階段から部屋へ戻りました。今から考えると寮監の人も見てみぬふりをしてくれたいとのだと思います。
しかしそんなことも夏前まで、夏以降はそれまで生きてきてこんなに勉強したことがないというくらい必死で勉強しました。まさに机にしがみつくように。
その後、大学受験が始まりましたが、皆さんのおかげで晴れて東京歯科大学に合格することが出来ました。電話で両親にその事を伝えると泣いているのがわかりました。
自分が合格できたのも予備校講師の方々の熱いご指導と両親や家族、予備校の仲間たち、寮監、地元の友だちの心の支えがあったおかげです。ありががとうございました。
あの時から30年近くたった今でもお付き合いさせてもらっている神○君、山○君、藤○君にめぐり会えたのも変な話ですが3人が共に受験に失敗して同じこの予備校に来なければめぐり合わなかったのですから不思議なものです。
できる事なら浪人は時間的にも経済的にも大きな損失ですが自分の場合はこの1年に出会った人たち、培った友情が自分の人生にとってかけがえないものになったことは間違いありません。
大学時代
晴れて東京歯科大学に入るとかねてから部活動はやろうと思っていたのですが打撃系格闘技に興味があったので、空手部にノコノコと見学に行きました。道場に行くと半分は柔道部がもう半分は空手部が使っていました。かなりの大所帯で基本稽古をやっていてなかなか壮観な感じがします。
一通り練習が終わるとメガネをかけた主将とおぼしき人がこちらにきて「試験の時の特典もあるからさ~」とネコなで声で言ってきました。
なんだ全然怖そうではないぞ!まあ一部顔が怖い人もいるけどほとんどの人は顔も怖そうではないし!」とこの時はそう勘違いしていました。
何日か考えたあげく「まあ、歯科大学の空手部だから同好会みたいなもんでしょ!」この時は今から思えばなめきった考え方でいました。
また自分は違う部活にも入ろうと思っていたので空手部のメガネの○先輩に兼部は可能か聞いてみました。2つ返事で「大丈夫だよ〜」なんて答えが返ってきました。
もうひとつの部活動は企画事業部といって何か会社みたいな名前ですが簡単に言うとダンスパーティーを主催する部です。都内のディスコを貸しきってダンスパーティーを企画してパーティー券を売りさばくという部活動です。今から考えるとずいぶんと変な趣旨の部ですが、入学したばかりでテンションがあがっていた自分は思わず入部してしまいました。
空手部の方はというと自分を含めた4人が新入部員として入りました。道着は道場においてあった誰かのお古を着てやる事になりました。
空手部も最初のうちは軽い練習で、練習が終わるといつもサイゼリアに夕食がわりに飲みに連れて行かれました。もちろん代金は先輩もちで「タダで飲めて夕食代も浮いてこりゃいいな」なんて思っていました。
ところが入部して2週間もすると急に練習がハードになり始めました。最初はネコなで声をだしていた先輩たちも段々厳しくなってきました。
もっとも練習中は先輩たちも厳しく、練習内容も中学の剣道部の比じゃないくらいハードでしたが、中学の剣道部のような理不尽な後輩いびりはなく練習が終わればむしろ友達みたいに暖かったです。
基本稽古、型、約束組み手と練習が進んでくると試合形式の自由組み手をやらされることになりました。
組み手は直接打撃制ではなく、寸止めですがその突きのスピードは体ごと突きに行くのでともても早いです。間違ってあたったら怪我をすると思うくらいです。
事実2年先輩の○原さんはカウンター気味に口に相手の突きが入ってしまい唇がちぎれそうになっていました。
またみぞおちに蹴りでも突きでも入ると呼吸が一瞬できなくなり、非常に苦しく、動きがとまります。相手に入れられたことも、相手に入れたこともありました。
試合では、「はじめ!」の号令がかかると無我夢中で突きを出したり、蹴りを出したり、もう自分が何をしていたかもわからないくらいひどく緊張し、興奮もしていました。
夏くらいまで 無我夢中で練習をこなし、厳しいけれども充実感に満たされている毎日を送っていました。
ところが夏休みが終わると6年生が国家試験に向けても勉強が忙しくなってくるために部活動には出てこくなって急に人数は少なくなってしまいました。自分も含めて6人だけの部になってしまったのです。
6年生がいる時は全員で12人ですからいきなり半分になってしまったので灯が消えたようで何だか張り合いがありません。団体戦にしても5人ですからギリギリで出て行かなければなりません。個人戦にでるにしても場合によっては誰かが団体戦と掛け持ちしなければなりません。
また1年でたいしてできもしないのに白帯で試合にでていかなければなりませんでした。
そして公式の試合に白帯ながらはじめてでることになりました。相手は黒帯でした。始まる前にメチャクチャ緊張しました。「えーいどうにでもなれ」と試合に臨んだら、力がいい具合に抜けていたのか、はたまた負けて元々という感じで開きなったのがよかったのか、順突きが見事にカウンター気味にきまり2本先取できました。そしてそのまま時間切れとなり黒帯に勝ってしまったのでした。
監督の○田先生は喜んでくれましたが「相手が調子悪かったんだ。まぐれだと思え!」と釘もさされました。
そんな空手部も学年があがるともに同級の部員が一人抜け、もう一人抜け、一人は留年してしまい、とうとう自分の学年は自分ひとりになってしまいました。
後輩も自分が6年になるまでは何人か入っては何人かは抜けるという状態が続きました。ひどい時はトーナメントの団体戦に3人で出て一人負けるともうそこで次の試合には出られないという時もありました。
また少ない人数なのに会場を提供しなければならず試合当日の午前4~5時まで会場の設営にかかってそれから1時間ほど寝て試合にでるというような無謀な事をしいられたこともありました。
しかし、しばらくすると○谷という新入生が入部してきました。元々この○谷は硬式空手の経験者で体は小さいですが黒帯で動きがよく有望な奴でした。またその次年には○内というお父さんが東京歯科の空手部の黎明期のメンバーの子息が入ってきました、彼もすでに黒帯でした。またこれは後で知ったのですが、ふたりとも学校の部活動が終わってから町の極真系の道場に通っていたそうです。根っからの空手バカですね!
ふたりとも最初から強かったですが、決してそれを吹聴することもなく、先輩を立ててくれました。
自分が5年で主将の時は中々勝ち進められなかった弱小空手部でしたが、この二人に引っ張られて医科歯科リーグで準優勝という栄誉をいただくこともできました。
自分が学年一人で精神的につらくても空手部をやめなくてよかったと思いました。自分があの時点でやめていたらさらに空手部は衰退していたことでしょう。
空手部の先輩、後輩ありがとうございました。
学生生活も3年生になると一変しました。3年生からいよいよ専門的な授業が始まるからです。
1〜2年生は普通の大学の教養課程とかわりませんが、3年生からは歯科の分野の医学的な基礎の授業が始まります。講義の時間も90分と長くなります。
そして講義だけでなく、実際に模型上で入れ歯を作ったり、冠をつくったりとして実習も始まりました。
5年生になると診療室に出て6年生や先生方の診療の見学をすることになります。
医局員時代
晴れて国家試験に合格したら、いきなり地元にかえっても何もできないし、患者さんに迷惑がかかるしどうしょうかと思いました。
そんなところに空手部OBで大学病院に残られていた佐○先生からうちの医局に残らないかとういうお誘いもあり補綴科という被せ物や入れ歯の診療や研究を専門的に行なう所に入れさせてもらうことができました。
いきなり診療はできませんから、指導医のチェックを受けながらまずはひとりの総入れ歯の患者さんを受け持つことになりました。
患者さんは70歳代の女性でした。お口をみると自分にはどうすれば治療すればいいのだろうと途方にくれるようなほどアゴの骨が吸収していました。
最初は、自分にこの人を満足させられる入れ歯が作れるのだろうかと思いました。
主訴から始まる問診、そして顔立ち、発音、アゴの動き、今入っている入れ歯等を観察、記録して最後に診断用の模型つくるための型どりをさせていただきました。この型どりを指導医にみせると「うまい!」と評価していいただけましたが、次回までに治療方針と最終的な入れ歯を作っていくため精密な型どりの方法を考えておかなくてはなりません。
うちの研究室は指導医がいても手取り足とり教えてくれるというものではありません。新入医局員は電話番、お茶くみ、コピーとり、実験の手伝い、他い色々な雑用の合間を縫って自分で時間を見つけて勉強しなければなりません。夜は夜で先輩の先生と飲みに行く付き合いもあります。
図書館にいってまずは自分で勉強し、わからないところを指導医にきくというシステムです。その当時はそれが一番いいと思う方法で型どりをしてみました。
とりあえず型は取れて入れ歯を作っていくための模型が完成しました。そしてかみ合わせをとるための装置をその模型の上で作っていきました。しかし自分ではしっかり模型と装置を分離する液をシッカリ塗ったつもりでしたが、装置を模型から外す時に模型が2つに割れてしまったのです。
泣きたくなりました。
歯医者は通常は入れ歯を作るといっても診査・診断→型どり→かみ合わせ→試適(服でいう仮縫いです)→装着・調整を行なうだけですが、ここでは技工士さんが行なう行程も行なわなければなりません。
すったもんだしたあげく何とか入れ歯は完成し、患者さんにも数回の調整の後使っていただけるようになりました。
最後には補綴科の医局員に前で自分の症例の発表をしなければなりません。
周りを暗くしてみんなの前にたってなぜ自分のその患者さんにそのような治療をしたのか話さなければなりません。
単に人前に立って話をするだけではなく質問の受けこたえしなければなりません。そんなことは人生の中で一度もしたことがなかったので、非常に緊張し頭の中が真っ白になります。
スライドを使っての発表なのでこちらに光をあてられていますので相手は見えません。暗闇の中から質問がきます。
普段だったら答えられる質問も答えられず自分でも何をしゃべっているのかわかりません。そのうち質問が罵声にかわります。そこをまた突っ込まれて検討違いな事を言ってしまうという悪循環が続きます。
そんな事を数回繰り返した後、なんとか許可を得、患者さんを本格的に担当することになりました。
今考えると本当に未熟な技術だったので申し分けないのですが、東京歯科大学という看板を信用してきて下さった患者さんの期待に答えようと頑張る日々だったと思います。
医局に入って3年目がすぎようとしている頃、そろそろ地元にかえるための別の準備をしないといけないぁと思い始めました。
別の準備とは入れ歯の治療や被せ物の治療はそれなり自信がついてきましたが、他の治療は週に1回の歯科医院でのアルバイトの時にしか行なわないので、普通の治療経験は開業医に勤めている同級生に比べればすごく少ないからです。
そのため何処かの診療室に1~2年勤めさせていただいてから地元に帰ろうと思いました。そこで自分は開業医の先生の所にいった場合のことも想定して、そこの患者さんと院長先生・スタッフの迷惑にならないように歯の中の神経をとる練習をすることにしました。
練習といっても患者さんでやるわけにはいかないので日曜日に自腹をきって根の治療やその他の治療のための講習会にいったり、毎日の大学での診療が終わった後一人診療室に残って模型の歯や抜いて保存しておいた歯をつかって練習しました。
ある程度専門以外の治療にも自信がついてきたので4年目をもって医局を去ることに決めました。
医局員時代は迷惑ばかりかけていた自分でしたが、あの4年間があったからこそ人よりはいくらかでも入れ歯や被せ物に関して何がいいか悪いか見極める目と自信がついたのだと思います。
羽○先生を筆頭に諸先生方、どうもありがとうございました。
勤務医時代
さて大学をやめた後どこに勤めようかと考えたあげく、給料は二の次でとにかく勉強ができる優秀な所に行きたいと思いましたので父に相談して地元の○田先生に聞いた所、○田先生の友人が浅草で開業していて、しかも衛生士学校の講師もやられている優秀な先生がいるということで見学に行き、院長先生以下代診のドクター、非常勤のドクターの方も人柄が良さそうなのと、スタッフが多く楽しく仕事ができそうな雰囲気なので何日か考えたあげくその医院に勤めさせていただく事になりました。
浅草という土地柄いろんな方がいらっしゃいました。宝くじ販売のおばちゃん、テキヤの親分さん、エグゼクティブサラリーマン、力士、芸能人の家族、近くのお店のおかみさん。今までは東京歯科大学という看板だけでこんな何もできない若造にもついて来てくれていたわけですが、ここでは院長が長い間に培った信頼や人柄に多くの患者さんがついてきているのが身にしみてわかりました。
そんな中でも何人か患者さんは自分を信用してついて来てくれました。本当にありがたいことでした。
院長先生には開業医の苦労もわからずに生意気な言動もあっかもしれせん。
宮○先生、ありがとうございました。
また○山先生、君○先生、また坂○さん以下スタッフのみなさんどうもありがとうございました。
1年の勤務後、さらに修行のために、違う医院に勤めるか、或いは研修施設に行くことを考えていたので、そのことを両親に話しましたが「いいかげん、帰って来い!」と言われたので地元に帰って父と共に診療をすることとなりました。
そして大胡へ
色々と経験し、いくらか診療全般に自信がつき、意気揚々と地元の大胡に帰ってきました。そして大学の時と同じような最高の診療をすれば、患者さんが付いて来てくれるだろうと思っていました。
しかし実際に父と診療を始めてみるとあまりにも父との診療に対する考え方の違いのためにぶつかることも度々ありました。
また治療はというと削ってはつめ、削ってはつめという診療に繰り返しで、これでは本当に患者さんの健康のためになっているのだろかというジレンマもありました。
まずお口の中の歯石や細菌バイオフィルムを取って歯面をきれいにして、歯肉の炎症もなくなって、ムシ歯や歯周病になる原因が少なくなってから精密なかぶせ物や入れ歯を入れていく。そして、その最高にいい状態を維持して頂く為に定期的なクリーニングに通って頂く。
そんな診療体系を当時も今も理想としています。
そんな理想的な診療を自分は患者さんの健康のためを思って提案しても「歯医者は削って詰めてればいいんだ!」というような事を何だとなく言われたこともありました。
その患者さんの歯を救う知識や技術はあっても、その方法を患者さんに納得して受けていただける説明が出来なかったり、そのような診療を理解できるスタッフが育っていなかったのです。もしかしたら、まだ時代が早すぎたのかもしれません。
そんな自分を歯がゆく思い、自暴自棄になったこともありました。
そして自分が思い描いている理想の診療スタイルについて、自分の説明が熱心になればなるほど、患者さんの理解は得られず多くの患者さんが離れていく事になってしまいました。
今思うと患者さんへわかりやすい説明ができなかった自分の未熟さがあったと思います。
今まで「できることなら一生自分の歯で噛みたいという」自分の診療スタイルに共感していただける患者さまに支えられて何とかここまでやってまいりました。ありがとうございます。
しかし、この日本、そしてこの前橋においても、ようやく「歯科の病気は予防が可能」ということが一般の方にも浸透しつつあるように思われます。
ここまで来るのに自分が郷里に帰って17年近くたってしまいましたが、ようやく歯科の予防に芽が出つつあるようです。
「細かい」「うるさい」と言われ続けながらも「予防」を言い続けてよかった思います。そして今度の私の夢は患者さんが歯を削られに歯医者に来るのではなく、歯を守るためにみんながニコニコして歯医者さんに通う。そしてお口の健康を通してみなさんが心身共に健康でいられるそんな時代になることです。
ここまで自分の歴史を書いてみて思ったのはいかに自分が色々な人のお世話になり愛情を受けてきたかがわかりました。また非常についている人生を送れてきたのだということわかりました。
子供の頃に持っていた科学への憧れ。科学の発達により色々な不幸な事が解決されている自分が子供の頃思い描いていた未来にはまだなっていませんし、自分も純粋な科学研究者にはなりませんでしたが、歯科という小さな世界の科学の分野を通じて人を幸福にして、それがやがて世界平和につながっていけばいいなと思う今日この頃です。
思えば科学も科学技術もそれを使う人間の考えによって益にも害にもなるのです。
そういえば今のこの心境に通じる言葉がいそ歯科医院に伝わっております。
生前父に聞かされたのですが、父も誰が言っていたのか、或いは書いていたのかはわかりませんでした。
その言葉をお伝えして結びにしたいと思います。
患者様がお住まいの主なエリア
群馬県前橋市、群馬県桐生市、群馬県伊勢崎市、群馬県太田市、群馬県みどり市
上記以外の地域からも沢山の患者様が来院されています。お気軽にお越しください。






